「仏事」の名目で院御所に西面の武士1700騎が集まる
「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑫
西園寺父子は捕らえられ参院した大江親広は配下に
5月14日、京都が官軍に制圧され半月ほどが経過したこの日、後鳥羽上皇は二位法印尊長に命じ、親幕府方の公卿である右大将・西園寺公経(さいおんじきんつね)と中納言・西園寺実氏(さなうじ)父子を捕らえ、弓場殿(ゆばでん)に召し籠(こ)めてしまった。その理由はこうである。
この日上皇は、京都守護の大江親広(ちかひろ/広元の子)と伊賀光季に参院を命じた。官軍に寝返らせるためである。上皇の求めに対し親広は参院し、そして要求を拒みきれずこれに応じてしまった。
これに対して光季は、西園寺公経の「参院すべきではない」という助言を聞き入れ参院しなかった。光季の妹は北条義時の継室(北条政村の生母)で、義時が特に信頼する京都代官だった。これを知った上皇が公経・実氏父子の幽閉を命じたのである。
この日以降、幕府方の公家たちはみな恐怖に打ち震え、一条頼氏(いちじょうよりうじ)のように鎌倉に逃避する者もあった。
5月15日の朝、上皇は大内惟信・佐々木広綱・三浦胤義らに800余騎の軍勢を引率させ、誘いを拒否した伊賀光季の高辻京極(たかつじきょうごく)邸を襲撃した。承久の乱の勃発である。迎え討つ光季の手勢はわずかに85騎、その劣勢は火を見るより明らかだった。この戦闘で光季の次男光綱(みつつな)は自邸に火を放って果てた。そして午の刻、わずかな兵で奮闘していた光季も敢え無く討ち死にすることとなった。
在京経験が豊かな武士宛に院宣を発給し、武家の分断を狙う
緒戦をものにした上皇は、葉室光親(はむろみつちか)に命じて院宣を作成した。北条義時追討の院宣である。
右大臣実朝の死後、家人たちが治天の君である上皇の意思に従いたいというので、義時を奉行として幕政を担わせようとしたところ、3代将軍の遺跡を継ぐべき人が無いというので、義時の申請で摂政の子息(三寅)に将軍を継がせることにした。ところが義時は将軍が幼年であることをよいことに専横を極めるようになった。よってこれから以後は義時の奉行を停止し、上皇の意思に任せよ。もしこの命に従わず、なお叛逆を企てる者があれば速やかに討ち取れ、勲功を挙げた者には褒美を与える、院宣は以上のとおりである、
承久三年五月十五日
按察使光親奉
5月16日の寅の刻、秀康はこの院宣と官宣旨を下人の押松(おしまつ)丸に持たせ鎌倉に遣わした。押松丸は通常は20日を要する京・鎌倉の道中を3日で駆け抜けるよう命じられたという。押松丸は院宣を伝達する有力御家人の交名(きょうみょう/名簿)を持っていた。慈光寺(じこうじ)本『承久記』にはその名が明かされている。
すなわち、武田信光(たけだのぶみつ)、小笠原長清(おがさわらながきよ)、小山朝政(おやまともまさ)、宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)、長沼宗政(ながぬまむねまさ)、足利義氏(あしかがよしうじ)ら8名の名であった。彼らは有力御家人の中でも特に在京経験が豊かな武士たちであった。
中でも注目すべきは、足利義氏(義時の甥)、北条時房(義時の弟)、三浦義村(胤義の兄)である。彼らへの院宣発給が一門の分断を狙ったものであることは明らかだった。
また、院宣とほぼ同内容の官宣旨も作成された。これは畿内近国の御家人の動員を念頭に、五畿七道の諸国・諸荘園の守護・地頭に均しく下された。
さて後鳥羽上皇はなんのために挙兵したのだろうか。院宣を読む限り、その目的が幕府転覆や、武家政治の否定に向けられていたとは考えられない。上皇が敵視するのはあくまで北条義時である。義時を幕府から排除し、幕府を自らの統制下に置くこと、これこそが上皇挙兵の真意であった。ただしそれを実現するには御家人社会に鬱積している反北条氏の恩讐のみが頼みであった。上皇とはいえ御家人の力を利用しなければ達成することのできない策謀であった。
監修・文/簗瀬大輔
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